時間などの制約もあって、なかなかオペラ全曲を聞き通せない。オペラは元々LDなどの映像付きメディアが好きで(実演はなかなか)何種類か持っているが、一度見たきりで何回も見ることができないのが残念だ。
今回から始めたモーツァルトのオペラ(クレンペラーのモーツァルト;オペラ録音は4種類ある)も、久しぶりに聞くものも多いし、初めて聞く録音もある。的を外したことを書くかも知れない(それは心配ない・・・いつも的外れだ^ ^)。
形式として、イタリアのオペラ・ブッファを土台に「フィガロの結婚」は書かれているが、その楽しさには比類がない。ただ、物語の背景や、ワーグナーより随分前に書かれたオペラだということを理解しておかないと古くさく感じてしまうことも事実だ。
例えば当時ヨーロッパ各地方の領主が、その使用人の結婚に際して持っていた「拒否できない初夜権」など、現代人にはなかなか理解できないだろう。当時は「職業の自由」「結婚の自由」「住むところの自由」などは認められていなかった時代で、どこかの領主に従属していなくてはならず、またその領主の領民に及ぼす権力は絶大だった。これはヨーロッパだけではなく、無論明治以前の日本もほぼ同じ状態だったわけで、近代化以前の土臭い時代の物語として聞く(あるいは読む)ことが求められる。
元々この「フィガロの結婚」はボーマルシェの三部作散文喜劇の中の第2作として書かれた(第1作は「セビリアの理髪師」第3作は「罪ある母」)。フランスのアンシャン・レジーム(旧体制)を批判し、フランス革命の直前にパリで初演され、大評判をとった。
この戯曲をオペラにしようと考えたのはモーツァルトで、ダ・ポンテが台本を書いた。ボーマルシェの戯曲そのままでは、オーストリア皇帝から上演の許可が出ないだろうと言うことから、当時から見て過激な部分は省略、オペラ・ブッファとして形作られた。ダ・ポンテが台本を書き始めてから、オペラの完成まで6週間だったという。
クレンペラーの「フィガロの結婚」全曲は1970年1月の録音だから、最晩年の録音と言える。クレンペラーは他の多くのドイツの指揮者と同様、オペラ指揮者としてスタートした。クロール・オペラの総監督に迎えられるまで、さまざまな歌劇場で指揮をしている。不幸な亡命生活からしばらくの間、オペラから遠ざかっていた期間が長かったが、そのオペラ全体を見通す力はやはり並の指揮者ではないと思える。恐らく、その総決算とも言える録音群が、EMIに残された4種のモーツァルトのオペラと、ワーグナー「さまよえるオランダ人」だろう。
この「フィガロの結婚」の録音では、クレンペラーはオーケストラのプルトを減らして室内管弦楽団の規模で演奏している。しかも、幾分突き放したような響きは大げさにならず、最近のピリオド楽器での演奏の先駆をなしている演奏だとも言える。
ただ、テンポは極めて遅い。序曲から第1幕だけコリン・デイヴィス指揮BBC交響楽団の演奏と聞き比べてみたが、驚くほどの違いだ。多くの人にはデイヴィスのテンポの方が妥当と感じられるに違いない。
しかし、序曲の出だしから、クレンペラーのゆったりしたテンポとやわらかなで親和的な響きを聞くと、なぜか幸福な気分に浸れる。遅いからかも知れないがメロディの魅力が際だって聞こえる。また、刺激的なフォルテシモはなく、同じフォルテシモでもどこかゆったりしている。第1幕の出だし、結婚を控えたフィガロが、自分たちの部屋にベッドが入るか寸法を測っている場面でも、セカセカしていない。デイヴィス盤が幾分時間に追われたわれわれ現代人と等寸の寸法の測り方だとすれば、クレンペラー盤はそんなに1日の時間を気にせず生きていた人たちの羨ましいような時間感覚の測り方だ。
そして、スザンナを演じるレリ・グリストの愛らしいソプラノが聞こえてきた瞬間から、さらに豊かな感覚を味わうことになる。レリ・グリストの風貌を小生は残念ながらまだ見たことはないが、声だけ聞いていると、ほぼ理想に近いスザンナに聞こえる。
物語のあらすじは、馬鹿馬鹿しくなるほどの、恋と嫉妬とそのための陰謀の話だが、夫に裏切られて煩悶する伯爵夫人は、ヴェルディ「ファルスタッフ」や、R・シュトラウス「ばらの騎士」にその姿は投影されて登場する。この物語の全体は、第3幕「スザンナは来ないわ」の最初は悲痛で、後半美しい伯爵夫人のアリアから明らかなように、フィガロとスザンナの結婚を衣にして、容色が衰え、若い女性にうつつをぬかす夫に、愛想をつかれるのではないかと恐怖心を持っている伯爵夫人の救済の物語が主軸だと分かる。その伯爵夫人自身が、小姓ケルヴィーノからの恋の語らいを受け入れているのだから、なにおかいわんやだが。
「フィガロの結婚」は有名な「恋とはどんなものかしら」を含む親しみやすいメロディが溢れているが、それは作曲された当時の流行歌を作るようなものだったのだろうか。全体にドタバタ喜劇の雰囲気が横溢しているが、第3幕、借金のカタにフィガロに結婚を迫っていたマルチェリーナが実はフィガロの母親だったという「愛しい息子よ」のどんでん返しにはあきれてしまう。笑うしかない(^ ^)。
クレンペラーの創り出す世界は、あくまで柔らかな響きで、ゆったりとこのオペラを進行させて行く。
第4幕マルチェリーナのレチタティーヴォとアリア、それに続くバルバリーナのレチタティーヴォはカットされている。あまり、多くの演奏を聞いてきたわけではないので、これらのカットが一般的な慣習なのかどうかは分からない。
第4幕終盤、伯爵の「Contessa perdono!」から、出演者全員による魅惑に充ちたアレグロ・アッサイの合唱でこの「たわけた一日」の幕が下りる。
小生はクレンペラー・ファンだから、この「フィガロの結婚」には肯定的だが、音楽之友社の「名作オペラブックス1 フィガロの結婚」で、ディートマル・ホラントは「ディスコグラフィについての注釈」で辛辣な批評を書き加えている。少し、引用させていただく。
「さて、《フィガロ》の全録音の中でもっとも奇妙なのはオットー・クレンペラーのスタジオ録音である。傑出した人格者であるこの指揮者に対する尊敬の念からしてひじょうに辛いことなのだが、クレンペラーはここで、一般にモーツァルトの音楽と結びつけて考えられているもの全てを徹底的に排除してしまっている。拍子が鉛の靴をはいたように鈍重に迫ってくる。しかし、驚くほど集中力が強く、しかもアーティキュレーションが正確なので(管楽器!)、《フィガロ》の音楽を今までに一度も本当にきいたことがなかったような気になってしまうのである。だがそれにしても、モーツァルトもまた《フィガロ》で作曲したあの燃えたぎるような革命精神は、完全に姿を消してしまった。クレンペラーが〈恐ろしいばかりの優美さ〉(Th.マン)を得ようとした結果、革命精神は額縁のガラスケースの中に収められてしまったのである」。
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