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テンシュテット唯一のブルックナー:交響曲第3番の録音である。実は、このCDを購入した頃、にわかには本当にテンシュテットの演奏かどうか分からなかった。まだ、テンシュテットの演奏には今ほどなじんでいない頃で、テンシュテットの演奏の特徴なども確信が持てなかった。オーケストラも、あまりテンシュテットにはなじみのないバイエルン放送交響楽団だし・・・。
しかし、おまQさんの粘り強い調査で、このThe Bells of Saint FlorianのCDは、1976年11月4日にバイエルン放送局で放送された放送用録音が元であることが分かった。さらに、テンシュテットはバイエルン放送交響楽団で11月4日だけではなく、5日にも同一プログラムを組んでいることが分かる。
また、このログを作成するために久しぶりに当CDを聞き、改めてテンシュテットの演奏であることに、ようやく確信が持てた。これは、テンシュテットの演奏で間違いがない・・・と思う(^^;。
The Bells of Saint Florianという海賊レーベルは、色違いの同じジャケットデザインで、ブルックナーの交響曲ばかりをリリースしていた。中にクーベリックの「ロマンティック」という超絶的名演があり、許光俊氏が絶賛しているチェリビダッケの「ロマンティック」もこのレーベルからリリースされていた。ヨッフムとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との日本公演での交響曲第7番や、ヴァントとバイエルン放送交響楽団との第8番なんてのもリリースしている(ヨッフムのウィーン・フィルとの第7番もThe Bells of Saint Florianにある。多少音は悪いが)。その他、ザンテルリンクの第3番、「ロマンティック」など、優れた録音が多い。
小生は、The Bells of Saint Florianの全てのCDを購入したわけではないが、今思うと全てを購入しておけば良かったと思う。今でもパラパラとだが、大手CDショップのワゴンセールやインターネットオークション、中古屋などでThe Bells of Saint FlorianのCDを見かけることはある。
ブルックナーの交響曲には、さまざまな版が存在する。交響曲第3番も同様だ。何がなんだか分からないくらいにややこしい。詳しくは音楽の壺や、金子健志著「ブルックナーの交響曲」(音楽之友社刊)をご覧いただきたい。小生にはブルックナーの交響曲の版について云々できるほどの知識はないし、それほどの突っ込んだ興味があるわけでもない。ブルックナーの版の問題は小生の手に余る・・・というか、それほど気にして聞いていなかったりする横着者である(^^)。
ただ、テンシュテットだけではなく、クナのブルックナーを聞く上でもスコアはあった方がいいので(第5番、第8番、第9番に関しては、クナの使ったスコアを野口剛夫氏の音と言葉社が発売してくれている。第3番のもあるようだが未入手・・・なんかクナの第5番以降を取りあげるときには、泥沼にはまりそうだな^^;)、音楽之友社版ミニチュアスコアを参考にした。音楽之友社版ミニチュアスコアは、ノーヴァク版(以前はノヴァーク版といった。音楽之友社版ミニチュアスコア第7刷はノーヴァク版になっている)による第3稿だそうである。
よく、ヴァーグナーの後継者としてのブルックナーと言われる。確かに、ブルックナーはヴァーグナーに私淑し、自作の交響曲をヴァーグナーに献呈したりしているが、ブルックナーはヴァーグナーの後継などではないし、小生は全く別の指向性を持った作曲家だと思っている。ヴァーグナーの後継は、おそらくマーラーとR・シュトラウスである。アルバン・ベルクもそうかも知れない。
また、ヴァーグナーの得意だった指揮者はブルックナーも得意だ、というのも甚だしい誤解だ。ヴァーグナーの音楽とブルックナーの音楽はまるで別物である。
なぜ、そのような誤解が生まれたのかというと、ブルックナー本人がヴァーグナーに私淑していたということ、そしてその尊敬の念がヴァーグナーの楽曲の引用を含め、「ヴァーグナー的」という響きの獲得に関心があったというところか。シャルクやレーヴェなどの弟子は、ブルックナーの交響曲を一般化しようとして、よりスコアの持つ響きをヴァーグナー寄りに改訂したりした。まず、ブルックナーその人の当時の指向が誤解を生む一つの理由だ。
さらに、演奏会でいえば、ドイツ人指揮者は当たり前のごとく、大方がヴァーグナーを指揮する。そして、義務のようにしてブルックナーも指揮をする。ブルックナーがインターナショナルな指揮者によって取りあげられる前には、ドイツ人指揮者か、ドイツ音楽が得意な指揮者の振ったブルックナーくらいしか聞くことができなかった。とてもブルックナーを振るようには思えなかったショルティ、マゼール、メータ、アバド、ムーティ、シャイーなどのブルックナーが続々と録音されるようになり、指揮者の誰も彼もがブルックナーを取りあげるようになったのは、ここ3〜40年くらいの間だ。マーラー指揮者が時間的に同じように長大なブルックナーを競って取りあげるようになり、CDのカタログはにぎやかになった。
この人たちはマーラー指揮者とは言えないが、ブルックナーの一般化に最も貢献のあったもう一世代前の指揮者の大指揮者は、オイゲン・ヨッフムとカール・ベーム、それにカラヤンだろう。日本でのブルックナー普及では朝比奈隆の名前を忘れることはできないが・・・。世界的には、マーラーの得意なバルビローリやホーレンシュタインという、イギリスで活躍していた指揮者が、マーラーと同じように、古くからよくブルックナーを取りあげていた。
フルトヴェングラーやクナのブルックナーはそれ以前から有名だったのは確かだ。
しかし、その受け取られ方として、分かりにくい音楽だが、これがドイツ人指揮者の心のふるさとなのか、てな意味合いを強くしてリスナーは聞いていたのではなかったかと思える。
なぜ、ブルックナーの交響曲は近年まで一般化しなかったのか?
それは、まず各作品が長いということ、響きが洗練とはほど遠く、質朴だということ、愛らしいメロディは数多いが、魅力に富んだものではなかったということ、リズム音型が単純で反復が多く、聞き手が飽きてしまうということ、曲想の変化が唐突で、統一感が見えにくいということ、などが挙げられるだろうか。それに、ブルックナーが私淑したヴァーグナーや、その取り巻きからは「オーストリアの片田舎のアマチュア作曲家」としか見られていず、その評価から長い間抜け出せなかった、ということがあるのかも知れない。ドイツ音楽中心だったクラシック音楽が、フランス音楽やスラヴ系の民族楽派の音楽に比重を大きく移していった時代であったことも見逃せない。
もう一つ、ナチス・ドイツが、ドイツ音楽の象徴としてブルックナーの音楽を持ち上げ(むろん、ブルックナーはナチズムとは無縁だ)、ナチの御用音楽として反発を受けてきた、ということもあるのかも知れない。
1970年頃まで、レコード屋のエサ箱にはブルックナーのLPは数えるほどしかなかった。小生、実はブルックナーの音楽がこれほど一般化するとは思っていなかった。特に日本でなぜこれだけブルックナーの愛好者が増えたのか、誰かゆっくりと考察してくれたら面白いのに、と思ってしまう(^^;。
小生が最初に聞いたブルックナーは、1969年頃、フルトヴェングラーの指揮した交響曲第8番のLPだった。そのすぐ後に、LPでベームの交響曲第3番や「ロマンティック」も聞いている。ところが、さっぱり理解できなかった。この音楽のどこが面白いのだろう、と思った。ひとつだけ良い思い出があるのは、いつの頃か忘れたが、ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のブルックナー:交響曲第7番がテレビで放映され、その抒情的な第2楽章が印象に残ったことか(来日公演での放映かと思って海外オーケストラ来日公演記録抄で調べたら、来日時にハイティンクが同曲を振った記録がない。国外でのコンサートのもようだったか)。その印象を元に、はるか後にカラヤン指揮ベルリン・フィルの交響曲第7番のLPを購入した。その増水した河が堂々と流れるような音楽に激しく感動し、ブルックナーは小生の最もよく聞く作曲家のひとりになってしまった。どこかにも書いたが、2枚組LPを買えるようになった自分の経済的環境も大きい。
今でも、クラシック愛好家の方と話をしていて、ブルックナーのことに話が及ぶと「あんなの、どこがいいんですか?」と眉をひそめられる場合もある。こと、ブルックナーに関しては、聞き手の好悪は大きく別れるようである。むしろ、非愛好家のほうが実は多いと思える。
世界的な指揮者でも、ブルックナーを取りあげない、あるいはあまり取りあげない指揮者はけっこういる。筆頭はトスカニーニだろう。バーンスタインも2種類の第9番の録音を残してはいるものの、ほとんどブルックナーを取りあげてはいないだろうし、わが小澤征爾も、ブルックナーを本格的に取りあげるのはこれからだろう。
第3番は「ヴァーグナー」と呼ばれるが、その交響曲の一部がヴァーグナーに献呈されたこと、その楽曲の中にヴァーグナーの引用が含まれていたことでの名称だ。ただ、ヴァーグナー側からは「オーストリアの田舎者の音楽」として評価は低く、ヴァーグナーの引用は現在最も聞かれる機会の多いノーヴァク版(V/3)ではほとんど消滅してしまっている。それでもなお「ヴァーグナー」という愛称は変だと言えば変だが、定着してしまったものは仕方がない。ヴァーグナーの引用のある第一稿は、現在エリアフ・インバル盤(Teldec)や、ゲオルグ・ティントナー盤(Naxos)で聞くことができる。
試しに、ティントナー盤を聞いてみたが、第1楽章で既に演奏時間は30分を越えており、いくらティントナーのテンポが遅いといっても、聞いていてかなり疲れるのは事実である。最後の方など、終わりそうでなかなか終わらない状態が非常に長く続く。全曲で77分あるのだから、これは大交響曲だ(^^)。恥ずかしながら、どこがヴァーグナーの引用なのかさっぱり分からなかった(^^;;;;。金子健志著「ブルックナーの交響曲」(音楽之友社刊)を参照にしながら、この辺りかな?というところは確認できたが、下手な絵画の模写や彫刻の模刻のようで(モナリザに見えない「モナリザ」とか、ニューヨークの自由の女神に見えない「自由の女神」とか・・・よくパチンコ屋の屋上に飾ってあるが)、ブルックナーのヴァーグナーに対する尊敬の念は伺えるが、それほど上手い引用ではない。やはり、楽曲としてはノーヴァク版第3稿が聞きやすいか。
テンシュテットの演奏は、ノーヴァク版第3稿の演奏のようである。「ロマンティック」の時のように、ハース版のはずなのに改訂版の効果をところどころ入れている、ということもあるので即断はできないが、識者のご意見を待ちたい。
The Bells of Saint Florian盤の音は、微少ホワイトノイズは被っているものの、良質のステレオ録音で、EMIのスタジオ録音のように弦楽器の音がスポイルされていず、納得できる音になっている。残響が多く、かなり広いホールでの演奏録音のようだ。CDR海賊盤Re!Discoverも多分同じような音だろう。The Bells of Saint Florian盤のデジタルコピーのため、少し音が丸くなっている可能性はあるが。
第1楽章
他のさまざまな指揮者の同曲と聞き比べてみたら、テンシュテット盤はなんだか響きが違う。第一ヴァイオリンのメロディがしっかり分離して聞こえると思ったら、両翼配置だった。バイエルン放送交響楽団は、クーベリックが長い間音楽監督を務めていてその指示だったのか、元々両翼配置を遵守していて、クーベリックは慣習としてその配置を良しとしたのか分からないが、テンシュテットもここでは両翼配置で演奏している。そのため、第1楽章から実に緻密な音での第3番を聞くことができる。冒頭からの効果をしっかりと聞くことができる。しかも、ダイナミックさを逃していず勢いのあり、推進力のある第1楽章になっている。金管楽器が早く出過ぎるようなところが散見するが、音楽監督であるクーベリックの推進力のある指揮に慣れていたためか。
39小節からの強奏では、テンシュテットはいつものように出し惜しみをしない。適切なダイナミックレンジで大きな稜線を描く。87小節からも同様で、そのふたつのクライマックスの後、シミジミとした弦楽器のメロディが奏でられるのだが、両翼配置のため、楽曲の美しさがもろに出てくるようなところがある。ストコフスキー配置では、メロディを司る第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが重なってしまって、楽曲の持つ本来の面白さが殺がれてしまっていることがよく分かる。
バイエルン放送交響楽団の合奏能力は実に高く、木管楽器の冴え冴えとした響きや、弦楽器の確信を持ったタイトな響きは魅力的だ。金管楽器の能力もあきれるほど高い。243小節からの沈み込むような楽想も、情感が豊かで美しい。多少、低域の薄い録音のため(バランスは悪くないが)、弦楽器にもう少し重量感が欲しいが、演奏自体は唖然とするほど見事だ。テンシュテットの苛烈とも言える要求によく応えている。もっとも、クーベリックの要求の方がさらに苛烈だった可能性もあるが・・・。
音楽は、輝かしいファンファーレあり、シミジミとした情感を優先させた音楽ありで、間然とすることなく進んでゆく。テンシュテットは表情の記号や弱音記号をおろそかにせず、規範ともいえる演奏を繰り広げてゆく。そしてなお、潤いのある演奏だ。重量感のある構築的な演奏というより、しなやかで情感をしっかりとすくい取った演奏と言うべきか。その上でテンポが多少速く、推進力にも富んでいる。
第2楽章
第2楽章、冒頭の弦楽器群によるメロディ、ハーモニーは実に美しい。ホルンが泣き叫んでいるようで、これがブルックナーの魂の叫びのようなものか(^^;。49小節からのヴィオラ、そしてチェロによるメロディの美しいこと!もっとゆったりしたテンポでも構わないと思うが、テンシュテットのこの演奏では、実によくメロディが流れてゆき、それでいて情感が豊かだ。ブルックナーのメロディがこれほど魅力的だったんだと思わせてくれる。スコアを見ていると、単純な音型が上昇したり下降したりしているだけだが、音を聞いていると清々しい世界が広がるかのようだ。
170小節のクライマックスに至るまで、素晴らしい第2楽章が展開してゆく。クライマックス後の金管楽器のメロディは、多少気恥ずかしくなるくらい通俗的だが、間に挟まる静謐な部分とゲネラルパウゼが、より音楽が通俗的になることを防いでいる。テンシュテットの、金管楽器の解放の仕方や弦楽器のメロディの奏でさせ方、ダイナミックレンジはなかなか素晴らしく、魅力的だ。216小節から、ドヴォルザークの「新世界より」第2楽章の「家路」と同じようなメロディが顔を覗かせ、シミジミとしながら第2楽章は終わる。
第3楽章
第3楽章はスケルツォだが、スケルツォの得意なテンシュテットは、推進力を持って開始する。トリオのテンポ変化はあまり見られないが、ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」を彷彿とさせる、実に楽しくウキウキと田舎道を歩いているような情景が浮かび上がる。
音楽はトリオを挟んで最初に戻るが、軽快なテンポで迫力も充分、見事な第3楽章を繰り広げてゆく。
第4楽章
第4楽章はかなり速い。他の指揮者の演奏でも、スコアの8分音符が車窓の窓から近い風景のように飛んでゆくが、とりわけテンシュテット盤は速い。その上で、えぐるように音楽は進んでゆく。65小節から軽快で楽しいメロディが現れるが、ブルックナーのフィナーレ楽章はどれも同じようなものだとは言えやはり楽しい。その後、音楽はつぎはぎのようにさまざまなエピソードの集積のようになる。金管がずれているのかと思える箇所もあるが、スコアでもずれているのだった(^^;。
215小節から、ホルンと木管楽器による静謐な箇所をくぐり抜け、音楽は大伽藍を建築するかのようにズンズンと高みに昇ってゆく。さらに、313小節からの弦楽器によるピツィカート、65小節からのメロディの再現を挟み、静かな弦楽器とは対照的な金管の咆哮から、全楽器強奏によるフィナーレへと突き進んでゆく。テンシュテットは弛緩することなく、見事にブルックナー:交響曲第3番を振り抜いてゆく。少し見事すぎて物足りない面はあるが・・・(^^;;;;。
手持ちのブルックナー:交響曲第3番のCDをあれこれと聞いてみた。といっても手持ちのCDを全部は聞いている時間がなかったので、ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団との1978年盤(ODE/ODCL1012)、同じくケーゲルのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との1986年盤(Weitblick/SSS0042-2)、ザンテルリンクの超有名なライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との1963年盤(Tokuma/TKCC-15083)などだが、どれもそれぞれに面白かった。特に、ケーゲル盤の痛切な孤独感(両盤とも)、ザンテルリンクの何か柔らかいものでくるんだようなゆったりとした、それでいてかなりの迫力を獲得している演奏とも面白かった。
ついでに、シューリヒトとウィーン・フィル盤も聞き返してみたが、巷間言われるような面白味に欠ける演奏ではなかった。実に清々しく、ケレンのない第3番を聞くことができた。
さらに(^^;、セル指揮クリーヴランド管弦楽団盤も聞いてみた。見事な演奏なのだが、録音がやはりブルックナーに向いていないと言うのかあまりにも明晰すぎて、豊かなブルックナーを聞きたい小生の趣味からは少し遠かった。
さらにさらに(^^;;;;、チェリビダッケのEMI盤も聞いてみた(EMI/7243 5 56689 2 9、1987年盤)。少し前に、驚愕の遅いテンポで話題になったコブラの演奏を思い出してしまった(^^;。コブラほど「なんだこりゃ」という演奏ではないとは思うが、それにしてもそのテンポの遅さには脂っ気を抜かれる思いだった。さらに、集中を要求されているようで、これはまた別に機会に部屋の明かりを暗くして聞いてみたい・・・(^^;;;;。
クーベリックの同曲の演奏録音を小生持っていないので(確かあったよね?・・・)、テンシュテットと親近性があったのかどうか確認できていないが、東ドイツ出身の指揮者の聞き比べは、各指揮者の個性の違いが際立っており、どれを聞いても面白かった。
その中で、テンシュテットの音楽を推進させる力と、さまざまな魅力的なメロディの歌わせ方では一番うまいような気がする。
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